arT’vel -Review- : art × Travel/旅×アート レビュー

ライターKababon(旅行、旅行業、舞台芸術);旅と舞台(主にバレエ、音楽)についての覚え書き

Axle 三銃士「仮面の男」:「ダルタニャン物語」昇華の一つの形

3月10日、劇団Axle(アクサル)の三銃士「仮面の男」マチソワを見てきた。

「三銃士」「ダルタニャン物語」のファンとして出かけていったもので、鑑賞も「銃士ファン」としての視点。

 
また正直Axleは、名前は知ってたが、実際に舞台を見るのは初めて。
いや、正直Axleという劇団自体、若い男性ばかりのユニットということで、「ヅカの男版?」とか、「仮面の男」にしても最近多い銃士タイトルのデカプリオ映画を引っかけて乗っかったものか…と思ってたが、なかなかどうして、とんでもない!
「三銃士」「仮面の男」「鉄仮面」どころか、その原作である全11巻に及ぶ大作「ダルタニャン物語」自体を深く掘り下げ、煮詰めて凝縮させ、2時間を一気に駆け抜けたような素晴らしい、とてつもなく中身の濃い舞台ではないか。
本当に、途中何度もうるうると、ぐっとこみ上げるものがあった。
ここまで「ダルタニャン物語」の長いエッセンスを凝縮して煮詰めた作品はなかったんじゃないだろうか。
少なくとも私は初めて見た。

天晴れだ。
本当に、天晴れだ。

銃士ファンとして、あの大作をここまで噛み砕いて2時間の舞台に収めた脚本さんはじめ、スタッフ、役者さん等々全ての関係者にお礼を言いたい気分だ。

もちろん原作をいろいろ脚色している部分は、当然ある。
フィリップに対する三銃士の立ち回りや、過去の三銃士全員のロンドン行も然り。
登場人物の台詞や立ち回りなど、解釈の微妙な違いはもちろんあるし、登場人物だって端折られている。
余分なものだってないわけじゃない。

でも、今作はそういう「キャラ物」とは一線を画している。
何よりアトス、ポルトス、アラミス「三銃士」の、一つの時代を駆け抜けた、彼らの生き様を、生々しい、等身大の人間として描き出してくれているのだ。

何より特筆すべきは、「ダル物」第一部の「三銃士」と第三部「鉄仮面」の部分を抽出した、二重写しの時間軸である。
すごい演出だ。

つまり、主要な役者に2役をあてがい、現在の「元三銃士」と銃士隊長のダルタニャン、さらに若き日の三銃士+ダルタニャンをそれぞれ配役することで、血気盛んな銃士たちの若い頃の時代、そして現在、これからの未来へのメッセージが綴られていくという構成になっているのだ。

話のベースはあくまで「仮面の男」。
ステージはチェス盤。
盤の上の国家であり、登場人物は国家のあるいは、神の駒だ。
「三銃士」とはいえ、衣装はワイシャツに黒パンツで、銃士隊は青ネクタイ、枢機卿側は赤ネクタイ。
役者はシンボライズされた上着を着ることで、その男はアトスに、アラミスに、ポルトスになる。
あるいはミレディに、ジュサックに、リシュリュー猊下にもなる。

銃士隊として「国を守る」ことに半生を捧げた、元銃士となった三人は、またそれぞれの信念や生きがいに従って、「国」「国家」と関わる。
「国家」として君臨するルイ14世だが、その「国家」たる王に仕えられなければ信念に従うしかない。

王の駒になるか、「王権」という天が授けた駒になるか。

王に幻滅し、天の駒であることを選ぶアトス。
天の駒ではなく、駒を動かす側になろうとするアラミス。
あくまでも王の駒として、職務を遂行しようとするダルタニャン。
駒などどうでもいい、無邪気に友といることに喜びを見出すポルトス。

アラミス、アトス、ポルトスはそれぞれの信念に従いルイ14世とすり替えるべく、囚われのフィリップ救出に動き、ダルタニャンはルイ14世に従う。
三銃士VSダルタニャンだ。

かつての友人が袂を分つのか、はたまた「やはりそうなのか」はともかく、このそれぞれの信念がぶつかり合う時間軸の上で、昔の、若かりし4人の出会いや「首飾り事件」の顛末といった過去の時代が随所で交錯し、現在と空間を共有する。

ルイ14世により、理不尽な死へと追いやられたアトスの息子、ラウルとの思い出が入り乱れるなかでの、父と息子の一瞬の出会い。
若い頃の銃士たちと、現在の銃士たちの、過去の自身との語らい。
ダルタニャンは過去の時間軸ではロシュフォールとなって三銃士と自身の前に立ちはだかり、現在では今は三銃士の前に立ちはだかるのは、なんという配役の妙か。
敵対していたはずの男と同じ立場にいるとは、なんというめぐり合わせか。

駒であることを拒み、冷酷さを持って己の信念に従おうとしながら、一人の人間の人生を破綻させ、それを悔いる、アンビバレンツで不安定な心を持つアラミス。
こうした理不尽や思うままにならない心や世の中、対立、新年の違いといった、ありとあらゆるものすべてが、一つの空間に存在するさまは、まるで曼荼羅の世界のようだ。

この混沌の曼荼羅絵図のなかで、アトス、ポルトス、アラミスの、三銃士たちが駆け、それぞれが閃光弾のように、弾け、輝く。

クライマックスで、一度は解放され外に出たフィリップはいう。
「国」とは、「傷ついても、そこに立ち、必死に生きる人たちだ」と。
ゆえに、彼は悟る。
「傷ついていない、監獄で“守られていた”自分は、王になれない」と。

ルイもまた傷ついていた。
誰も信じられずに、孤高の王として、「国家」たらんとしたのか。

フィリップは、そして言う。
「“国”を守ってください」という叫びは、悲痛だ。
「傷ついて、必死に立ち生きる人こそが“国”なのだ」という言葉は、このボロボロの日本の、もう否が応でも「過去には、2011年3月11日より前の日本には戻れない」現実を思い起こさせ、一層悲痛に、胸を締め付ける。

盤上で生きる銃士たち、そして客席も巻き込む曼荼羅絵図のなかで、モリエールが静かに舞い、踊る。
劇作家のモリエールは、だが舞台では語らない。
ただ、静かに舞う。
人々の間を、時空間のなかを漂いながら、彼らの生きざまを、どんな時代も変わらない、普遍の思いを次代に伝える使者のように…。

ペルスランだって、地下に潜伏する仕立屋とかいいながら、実際ははるか高みからこのチェス盤を見下ろす、あたかも「神」の化身のようだ。

「ダル物」で描かれてきた膨大な人間模様。
三銃士とダルタニャンの生き様。
お気楽冒険活劇もいいのだが、本来の「ダルタニャン物語」の持つ深い味わいは、この人間模様と、それぞれの生き様にこそ、ある。
未だに読み継がれ、今このときに舞台や映画、様々なメディアで何度もよみがえるのは、その作品に潜む「普遍の力」ゆえなのだと思う。

果たしてフィリップはどうなったのか。
逃げおおせて生き延びたのか、また囚われたのか…。
この話では、フィリップの行く末は描かれずに終わる。
だが、それはそれでいい。
「ダル物」の「永遠の謎」と言われる最後の台詞のように、それぞれが解釈すればいい。

とにかく、脚本家はじめスタッフの皆さんに拍手を。