arT’vel -Review- : art × Travel/旅×アート レビュー

ライターKababon(旅行、旅行業、舞台芸術);旅と舞台(主にバレエ、音楽)についての覚え書き

Axle三銃士「仮面の男」(2):モリエールの「普遍」とアラミスの衣

引き続きAxleの三銃士「仮面の男」。
あまりに深くて、思うところや考えるところ、余韻がありすぎる。

多分、きっと私はこういう「三銃士」もとい「ダルタニャン物語」が見たかったのだと思う。
見たかったものの形のひとつが、この「仮面の男」だったというべきか。


舞台に現れたのはワイシャツにネクタイの役者たち。
この時点で、この「仮面の男」が、歴史物だけをやるつもりではないことがわかる。

そしてアップテンポな曲とチカチカライトと共にダンスが始まり、最初に「仮面の男」時代の、いわばおっさん三銃士+1のチャンバラアクション、次いで「首飾り事件」時代の、若銃士+小僧のダルタニャンが登場する。
4人の若僧の前に立ちはだかるのは、おっさん三銃士+1の2役目、ロシュフォール、ミレディ、ジュサックとリシュリュー猊下だ。
この時点でもう、かなり意味深。
人は歳を経て、かつて自身が刃向かい対立した「敵」になるのだ、いつの間にか。

そして登場人物ともども、最後に現れるのがモリエール&仕立屋ペルスランだ。
特にモリエール

正直、ご贔屓アラミスももちろんだが、それ以上にこの「仮面の男」で頭を支配しているのはモリエールなのである。

チェス盤の上で踊る白ワイシャツの無機質な男共を、その「役」となすのは、シンボライズされた上着のみだ。
「地下に潜伏する」はずの「仕立屋」は、その実、舞台の2層の上段から、チェス盤たる世界を見下ろしている。
まるで天上から世界を見下ろす某の化身のように。
規模こそ全然違うが、まるでエイフマン・バレエの「ドン・ジュアンモリエール」を思い出すような立体2層構成だ。
天上と下界、平民の生きる世界と太陽王の世界だ。

そしてその「仕立屋の助手」たる劇作家モリエールは、その某の命により、あるいは自主的になのか、自在に盤上や天上を舞い、踊り、立体交差する盤上の世界を、空気のように漂う。
まるで時の使者だ。

時にはロシュフォールとなって若銃士とダルを引き合わせ、時にはルイーズとなってラウルを翻弄し、また時にはアンヌとなって国禍を引き起こす。
実はあるところでアラミスに僧衣を着せるのも、モリエールだったりする。

小さいながらもしなやかな、だけど筋肉ムキムキのモリエールは、なんだかノートルダム寺院で頬杖ついてるガーゴイルと一緒に、無表情にチェス盤の世界を眺めているようにも思える。

あまりにも自在で自由なこの“いたずら者”は、「ダル物」の世界どころか、「ノートルダム・ド・パリ」ではフロロを迷わせ、エスメラルダとカジモドを邂逅させたりもしそうだし、国境を越えて「カラマーゾフ」の世界に入り込み、ミーチャに「童」の夢を見させ、芳香と腐臭でアリョーシャを悩ませ、悪魔となってワーニャを狂気へと突き落としそうな、そんな雰囲気すらある。
まるでサン・ジェルマン伯爵。
断頭台の王妃やギロチンの血の海だって見届けていそうだ。

なんという浮遊感だ、モリエール

つまり、「普遍」なのだ。
この舞台の、読むところがほどんどないパンフレットに書かれていたわずかな言葉「普遍」の、その象徴が、多分モリエールなんだと思う。

でもその「普遍」というのは実にこれまた曖昧で、「ダル物」にしても「ノートルダム・ド・パリ」「カラマーゾフ」にしても、そのテーマはまったく違う。

じゃあ「普遍」って何だ。
例えば、時を、時代を経ても、どんなに時代が変わっても変わらない想いであり価値観か。
価値観なんて人の数ほどある。
「普遍」もまた、人の数ほどあるわけだ。

「ダル物」でいうなら銃士たちの生きざまであり、「国家」「国」「人」、あるいはアトスとラウルに象徴される「父の思い」だったりするのかもしれない。

モリエールはチェス盤の駒を動かす側に、しかもキングの駒すらを自由に操ろうと策謀するアラミスに、衣を着せる。
おそらく誰よりも大逸れた、大きな野望を持つ男に、自ら衣を着せる。
多分、とても無表情に。

だがアラミスの計画は頓挫する。
阻まれる。
「王の駒」であろうとする男によって。

でも「王の駒」に阻まれることなど、実は大した問題ではない。
一番大事なのは、王さえも駒としようとしたアラミスが、王と天上の某の間に立とうという男が、「1人の人間の人生を狂わせたのは自分だ」と、最後に大いに、とてつもなく後悔することだ。
甘っちょろいかもしれん。
でもこれはある意味、原作の、ポルトスを巻き込み、結果死なせてしまった、アラミスのどうしようもない悲痛な後悔とオーバーラップする場面だ。

「王」として祭り上げようとしたフィリップは、結局アラミスにとってはいつの間にか「人間」だった。
運命に、それこそ天上の某に翻弄された、哀れな、愛すべき囚人だった。
「フィリップは私が守る!」なんて、こっ恥ずかしいくらいの熱血はどうよと思えども、でも、ここで重要なのは、「情」を持つ者は、人間は、某と王の間には立てない、ということだ。
「守られていた」フィリップが王になれないように、「情」を、人の心を捨てきれないアラミスもまた、チェス盤の上で生きるしかないのだ。

でも計画の頓挫、野望の頓挫、そして破滅よりも、最後にフィリップのために揺れ動く情、原作で言うならポルトスのために流した涙こそが、この胡散臭い似非坊主・アラミスの、最もアラミスたるところであるし、この姿がまた愛すべき人間の「普遍」のひとつだ。
そしてもっと重要なのは、原作のアラミスは、モリエールから衣をもらったアラミスだけは、この「ダル物」のなかで、最後までしぶとく、それこそ「傷ついてもなお、立ち上がって」生きるのである。
それ故の、衣なのか…。
…アラミス贔屓の欲目かもしれないが。

最後に高見から盤上を見下ろすペルスランとモリエール
チェス盤の人々は、衣を脱ぎ、「今」に戻る。
でも舞台で熱く演じられた「普遍」は残る。

ペルスランはバッキンガム公爵か、なんて意味不明な蛇足はもうどうでもいい。
まるで彼らは次の世界へ、ワイシャツの人々にまた別の衣を着せに旅立たんとしているようだ。

そしてその「次の世界」でも、モリエールは舞うのだろう、自在に、自由に。
そして大人になった、おっさん三銃士の年齢になった人間に2枚目の衣を与えながら、無表情に問うのだ。
「お前にとって、変わらずに残っているものは何か」と。