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ライターKababon(旅行、旅行業、舞台芸術);旅と舞台(主にバレエ、音楽)についての覚え書き

映画「蜃気楼の舟」:マーブル模様の夢幻

映画「蜃気楼の舟」。 http://www.uplink.co.jp/SHINKIRO_NO_FUNE/ 何とも不思議な浮遊間と夢幻感のある映画というのか。 映画というか映像美を通した抽象画のようにも思える作品でした。

「ホームレス」とか「囲い屋」とか、事前にサイトなどで見られるあらすじから感じる重さは途中から掻き消え、夢幻ファンタジーのような、抽象的な映像美の世界が展開されます。

美しい……というより不思議な浮遊感。 そして結構後を引く。 大昔にソクーロフの映画を見に行って、なんともとりとめのないぐにゃぐにゃ、ふわふわした感じで帰った時のことを思い出しました。 (以下ネタバレ含みます)

■ダンサーのまとう空気

この映画を知ったきっかけは新国立劇場バレエ団の小野絢子こと絢子姫がでているということ。 しかし年末の番組で田中泯というすごいダンサーの存在を知り、しかもその人も出ているということを知り、一層興味が深まった映画です。

ダンサーが2人。 もちろん泯さんはドラマでも活躍されている方ではあるけれど、「ダンサー2人」というこの記号は何だろう。

泯さんは台詞とともに登場しますが、絢子姫は台詞なし。 しかし2人とも「身体」を使いまた無条件に身体と心が連動するダンサーだからこそでしょうか、いるだけで、出てくるだけで空気を変え、夢幻の世界に「色」を添えます。 泯さんは歩く姿が次第に踊りになり、絢子姫は立ち居姿と目線で閃光を放つ。 先に見たバレ友さんが「絢子姫は差し色のような存在」と言っていたけど、実に絶妙な言葉です。

■震災で脚本変更 夢幻と現実、カラーとモノクロのマーブル

ストーリーはざっくり骨子を洗い出せば、父親に捨てられ母が亡くなった主人公が、ホームレスをかき集めて生活保護費をピンハネする「囲い屋」をやるなかで、父親に再会。 しかし父親には改めて拒絶され、そうしたなかで隣のアパートに住む少女の父親の死を発見する。 死すら理解できない少女を通し、存在せざるを得ない現実世界に引き戻される――。

こんな感じでしょうか。 これだけ読むとやはり暗いし重そうですが、やはり映像美が絶妙なのです。

主人公はもとより、登場人物に名前はない。 唯一「ミノルさん」と呼ばれる男も偽名。 名のない浮遊感。 存在を感じられない、現実感のない虚無感。 しかし名はないからこそ、「誰でも」に通じ、「誰か」という存在が生まれそうな、その妙。

上映後のトークショーで竹馬監督が仰るには、震災の後でこの映画のシナリオを大幅に書き換えたのだとか。 最初はもっとストーリーの明確な、ドラマだったそうですが、震災の無情感や虚無感が、この幻想的、あるいは夢幻的な部分に大きく関わっているそう。

なるほどなぁと思います。 自分が立つ現実がわからなくなる。 立っていた地面がある日突然ぐにゃりと、ふわふわの、あるいは粘土のように、時には沼のようにずぶずぶとぬかるむような感覚。

カラーの現実とモノクロの幻想風景が交錯し、しかしいつしか現実もモノクロに、幻想世界もカラーにと映像が変わる、その映像が一層その感覚を引き立てます。

絵の具を垂らしてマーブルを作るような、そんな映像の融合というのか。

色もまた大事なファクターでした。 現実感のない主人公と「ミノルさん」が茶色系の服。 ホームレスの父と心象風景に現れる「青い服の」絢子姫。 少女の父は青いつなぎ。 少女と母親であろう女性が白い服……。

上映後のトークショーで監督に質問し、直にお答えいただいたのですが、やはりこの登場人物の服装にも意味があるのだとか。

「青い服」は死のイメージ。 直接黒を使いたくなかったから、青にしたのだそう。 となれば白は生であり聖。 茶は……その狭間といえるかもしれません。

■ダンサーの縦軸と横軸

監督は絢子姫を「線だ」といいます。 混沌としたマーブルの世界の中で、凛と立つ線。 現実の人は生きているから死をまとう。 絢子姫はその生と死の尊厳を持って、青い服をまとい夢幻の現実のなかに現れます。 公園で一瞬現れる、その視線。 夢幻のなかで踊る姿。 そして湖の畔に立つ凛とした姿……。

湖の畔では大勢の人がほかにもいるなかで、絢子姫だけが凛と立つ。 これはバレエダンサーたる彼女にしか出せない空気ですし、いま考えられる日本人のバレエダンサーを思い連ねても、絢子姫にしかできなかったのではないかと思います。 この立ち姿を見た瞬間、「監督、絢子姫を使ってくれてありがとう!」と思いましたし、目頭が一瞬熱くなりました。 絢子姫を選んだ監督も、すごい。

とにかく美しいのです。 夢幻のなかの死でありながら、でもやはりその存在はポジティブで、凛と前を向いている。 人の尊厳、死に向かう=生きる、という本能……とでもいうのでしょうか。 日本トップクラスのプリマでありながら、絢子姫はどこか庶民的…というか、女王様然としたキャラではありません。 そこがまたいいのです。

一方の泯さんは、押しつぶされて倒れます。 泯さんを父親だと気づいた主人公の前から「父」たることを拒絶し、主人公を「砂粒だ」ととどめの言葉を投げ姿を消し、公園をさまよう泯さんは、歩いているうちに歩きが踊りになっていきます。 もがき苦しみ、世界中を拒絶し、しかしその世界に押しつぶされ、あえぎ、倒れる。 絢子姫が縦とすれば、泯さんは横か。 2人のダンサーが描き出す縦軸と横軸。

軸はあるのに、その映像の世界はマーブルであり夢幻。 ……なんという宇宙なんでしょう……。

■女性たちのメビウス

少女と絢子姫と母親。

映画を見ていると、この3人の女性は一つの輪の中でつながっているように思えてなりません。 「母親」が象徴する魂、というのでしょうか。 主人公の夢幻と現実のなかでメビウスの輪のように往来する女性の姿というのでしょうか。

主人公にとって存在を自覚させることのできる唯一の女性だった白い服の母。 もう死んでいない、でも夢幻の中で唯一凛と立つ母の魂たる幻影のような、青い服の女性・絢子姫。 そして主人公を再び現実に引き戻す、白い服の少女……。

ダンサー2人が縦軸横軸を作る空間にこのメビウスの輪が回り、そして確たる足の置き場のないグニャグニャの地面とマーブルの色彩空間が紡ぎ出されます。 しあも縦軸はメビウスの輪の一部ですから、まるで異次元宇宙が幾重にも重なり合うような様相すら呈してくる。

その混沌から白い服の少女は主人公を現実世界へと導きます。 でもこの先もまた続きそう。 少女と歩く主人公は、しかしふとしたことでまた青い服の、絢子姫の幻影を見るのです、どこかで、きっと……。

なぜなら主人公が生きている限り、母親の幻影たる白い服の女は永遠に存在するから。 でもメビウスの輪が巡るたびに少しは地面の固さを感じられるようになっていくのだろうかと、そんな余韻も残ります。 機会があればもう一度見てみたい。 今度は別のものが見えそうな、そんな気もしました。

この竹馬監督の頭のなかはどうなっているんだろうなと思うと同時に、この人は映像表現が「言葉」なんだろうなぁと思います。 ダンサーにとって踊りが「言葉」であり、画家にとっては絵が「言葉」であるように。

こうした後でいろいろと考えこねくり回す作品は映画、舞台、バレエに限らず好きですし、いいものを見たと思います。 先にも書きましたが、公開されているあらすじとは違う夢幻の世界です。 その「暗さ」のイメージで引いてしまっている人は、もったいないのでぜひ早いうちに時間を見つけて足を運んでいいのではと思います。