arT’vel -Review- : art × Travel/旅×アート レビュー

ライターKababon(旅行、旅行業、舞台芸術);旅と舞台(主にバレエ、音楽)についての覚え書き

清里という町:ポール・ラッシュという人

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去る8月8日、清里萌木の村のランドマーク的レストラン「ROCK」が火災で全焼、という衝撃的なニュースが飛び込んできました。 このブログの原稿を書いている途中のことだったので、本当に驚いています。 ここ数年、「清里フィールドバレエ」を見るため通ううち、この「ROCK」が萌木の村のみならず、清里の「人が集まれる場所」として初めてできた店だったと聞いていただけに、一日も早い再開を心より応援しています。

さて。 その「清里」ですが、特に(自分も含め)バブル体験者の方々には一種象徴的な記憶となって刻まれているのではないでしょうか。 あの時代を象徴する観光地のひとつだったわけですが、バブルの終焉とともにまたひっそりと表舞台から姿を顰めました。 ですから私もフィールドバレエがきっかけとはいえ、まさかここで再び「清里」とご縁を持つことになろうとは思ってもいませんでした。

しかし再び毎年のようにこの町にふれるにつけ、狂乱のような時代を経て、町が地道に、地に足をつけて歩を進めていることを感じます。 そして現地の方々とのお話を通して何度となく耳にするのは「ポール・ラッシュ博士」「ポール・ラッシュ博士が目指した理想郷に」という言葉です。 先の「ROCK」内にも博士の写真が飾られていました。 清里の駅を降りると「清里の父」としてポール・ラッシュ記念館の案内が出ているのですが、やはりこの人を抜きに清里を理解することはできないのではあるまいか。

ということで、今年は時間を取って「ポール・ラッシュ記念館」に立ち寄ってみました。 →公式サイト

●ポール・ラッシュ記念館へ

記念館は清里駅前から清泉寮行きバスで、清泉寮下車。 →清泉寮 清泉寮前からは富士山の見事な山並みが望め、その山を見つめるように博士の胸像が建っています。 記念館は清泉寮の裏の森を抜け10分弱のところにあります。

 

ポール・ラッシュ博士(1897~1979)について平たくざっくり説明しますと。

アメリカのケンタッキー州出身の牧師さんで、1925(大正14)年、関東大震災で倒壊した横浜YMCAの復興のため初来日しました。 その時、28歳。 それが縁で立教大学で教鞭を執ることとなり、「教育に目覚めた」そうです。

博士は非常に日本を気に入り、大学で働く傍ら、聖路加国際病院建設の募金活動、日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)の設立といった事業も行いました。 そのBSAの青少年訓練キャンプ場として1938(昭和13)年に建てられたのが、清里清泉寮でした。

非常にアクティブに、様々な活動に尽力されていますし、なにより非常に親日家にでいらっしゃる。

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それゆえでしょうか、博士は第二次世界大戦が始まっても日本に留ろうとしたため日本の敵国人収容所に送られますが、結局アメリカに強制送還されます。 アメリカに戻ってからは米国軍日系軍人の日本語教師となり、戦後はGHQの一員として再来日します。 そして荒廃した日本の復興に携わるとともに、1948(昭和23)年、高地農業開拓のモデルとして清里農村センターを設置。 清里の開拓が本格的に始まることとなったわけです。

 

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戦中に打ち捨てられていた清泉寮を復活させ、聖アンデレ教会を建立します。 キリスト教の理念を軸に人を育て農業・牧畜を教え、牧場や農場を造り、「清里」を造っていったわけです。 実質清里の歩みは戦後からなわけです。

博士はそのまま清里に留まり、東京の聖路加病院で亡くなります。 1975(昭和50)年、82歳。 日本を愛し、清里を愛し、大きな信念と愛情とをもって、事業に尽力した生涯でした。

展示にはこうした博士の足跡がつぶさに説明されています。 とくに印象的だったのは、本来牧師さんゆえ理念はキリスト教ですが、日本での博士の活動信念には「その国の人々の文化を尊重」「アメリカ人のアメリカ文化の押しつけであってはならない」と語っていたということ。 日本を愛し、異国の文化を尊重しながら生きてきた人だったのだと、感じ入ります。 実際に博士の親日ぶり……というより町の人々にそそいだ愛情の篤さは疑いようがなく、ありがたさで頭が下がるようなところさえあります。 こういう方が素地を築いたわけです、清里というところは。

●見守りたくなるバブル後の歩み

さて。 バブルの時代は博士が亡くなってから約15年後のことでした。 人々はこぞって、「ナウでヤングでおしゃれな町」(笑)清里にでかけ(かく言う自分もその一人w)、駅前はファンシーショップでいっぱい。 ここはどこだ?と思うようなお城やクレープ屋が並び、パステルカラーであふれかえるような賑わいだったのですが、今や駅前はかつての記憶を伝える「モニュメント」が残るばかりです。

しかしながらポール・ラッシュ博士が残したKEEP農場のショップにはチーズやジャムやパンなどが並んでいますし、「フィールドバレエ」の会場では地ビールや地元のパンなど、土地の人ががんばって作っているんだな、と思わせられる品々が並びます。 この歩みが実に興味深く、「あの時代」、清里に足を運んだ自分としては他人事ではない思いで見守ってしまうのです。

博士の建てた教会、聖アンデレ教会は清里の駅から徒歩15分ほどのところにあります。 kiyosato2016f

清泉寮から駅に向かって山を下っていくと15~20分くらいでしょうか。 教会は瓦屋根で日本式の、こぢんまりした平屋建てで、納骨堂には博士の遺骨が収められています。 非常に温もりの感じられる、今でも大切にされていることが伺える空間で、訪れた日は庭でサマーキャンプの子供たちが集まってなにやらレクリエーションをしていました。 (教会ウォッチの好きな自分としては、非常によいものを見せていただいたと、感謝しております)

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この町が数年後どうなっているのか、どう歩んでいくのか、これからも少しずつ見ていきたいと思っています。 願わくば、車がなくてもあちこち行けるようにしていただければもっといいのだけどな。

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清里の父 ポール・ラッシュ伝

清里の父 ポール・ラッシュ伝

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