arT’vel -Review- : art × Travel/旅×アート レビュー

ライターKababon(旅行、旅行業、舞台芸術);旅と舞台(主にバレエ、音楽)についての覚え書き

劇団昴「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」:舞台ゆえの余韻

標題。
長いですね(苦笑)
ニキータ・ミハルコフの映画「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」の舞台化です。
この映画ははるか昔に見て、結構地味に心に残っている映画。
特に山あり谷あり…というものでもなく、ただ慈愛的な映像美で、あの春のロシアの草原や沼などの風景の中で、夢破れ淡々と生きている小学校教師・プラトーノフとその周辺貴族を描きつつ、ロシア…というか当時はペレストロイカを間近に控えたソ連の病もにじませたものでした。

そんな映画の舞台化。
観終わって一番最初の感想は「意外と台詞とか覚えているもんだ」でした(^_^;)
まあ何回も見たからな、私も、あの映画は。
脚本にやっぱりミハルコフが関わっているせいか、台詞のほとんどが映画のもの。
なんか全ての台詞に覚えがあって懐かしい一方で、舞台なら台詞も含め舞台のやり方があるんじゃないだろうか?などとちょっと物足りなさを感じたのも事実です。
某人形劇のコミカライズもそうなんだけど、元の脚本をそのままなぞるだけってのはどうなんだろうな??
ペーチャが撫でつけた髪をくしゃくしゃとやるという、時折映画とおんなじ振りまで出てきてちょっと…どうよとは思いましたが(^_^;)

でもあの広大なロシアの草原や貴族の別荘地や庭とかを一つの空間に凝縮させたのはすごいことで、やはりこれが舞台の醍醐味か。
暗転した時に屋敷の外に出るんじゃないかと思ったら、最後まであの室内空間。
恐れ入りました。
でも病める貴族たちの素っ頓狂でお馬鹿な、かつシニカルなパーティーがあの「舞台」という狭い空間の中で繰り広げられるからこそ、登場人物それぞれの人となりや個性、深さがより明確に伝わって来たような気もします。

特にアンナの存在感。
映画では上空の遠目から見ている語り部的立ち位置で、今一つ印象が薄かったきらいもありますが、さすがベテラン女優といいますか。
どっしりとした存在感があり、物語をこちらは大地の上で、根底から支えていた感がありました。

ソフィアはキレイだし、サーシャは健気だ。
というか、そばにいる人とささやかな幸せを築き、そこに喜びを感じる一番純朴で素直でまっとうな登場人物です、サーシャ。
私は映画ではこのサーシャが一番好きだったのですが、彼女の場合、純朴さゆえの愛だから、ラストのあの台詞は握りこぶし天に付きたてる、セクトの演説のようには言ってほしくなかったなぁ…と、そこがちょっと残念かも。

ストーリー的には過去、自分はなんにでもなれる、と野心に燃えていた学生プラトーノフが恋に破れ大学も中退し、一介の小学校教師として妻・サーシャと淡々とした日々を送っている。
ある日招かれたアンナのパーティーで昔の初恋の相手・ソフィアと7年ぶりに再会。
彼女も結婚しすっかり変わっており、美しい過去も傷つき、うだつの上がらない夢破れた自分をまざまざと思い知り絶望する。
妻との幸せな結婚生活も「幸せだ」と思いこみたかったのに過ぎないのだと、自暴自棄になっているところにソフィアがもう一度やり直そうと言いだし、それをソフィアのダンナであるボンボンが目撃してしまい…という展開。

結局「全ては元通り」というのが顛末ですが。

映画ではアンナが空から「いやぁ、全ては元通りね♪」といったニュアンスで俯瞰します。
というか、そんな感じだったような。

今回の舞台はその大地からストーリーを支えるアンナがやはり同じように言います。
「全ては元通りね…」と。
でもその重みは何??
しかもその台詞を木霊のように何度も何度も繰り返すのです。
そして繰り返されるたびに何か重たいものに感じられてくる。
ともすれば呪いの言葉のように…??
いや、まるで立ち向かう静かな炎のように…??

元通りだけど、全く元通りじゃない。
本当に元通りなんて、あるんだろうか?
元通りだけど、変えられる。
元通りだけど、元通り。
元通りなんだよ、コンチクソー。
元通りでいいの?
あなたにとって「元通り」って何…??と問いかけられているような気もしました。

観客それぞれが持つ印象や感想、人生は人の数だけある。
見る者全てがそれぞれの思いを抱けるように、結末を強引に押し付けることなく、見る人の数だけの未来を想い、語りかけていたのでしょうか、アンナは。
あの映画の映像に溢れていた、これも慈愛だったのかもしれません。
こういうゆとりのある作り、好きです。

いずれにせよ映画の余韻とはちがった余韻。
これはやっぱり、舞台ならではだったのかも。