arTravel: art × Travel/旅×アート

ライターKababon(旅行、旅行業、舞台芸術);旅と舞台(主にバレエ、音楽)についての覚え書き

Axle三銃士「仮面の男」(3):「銃士物」であって「銃士物」でない ~あの日と共に思うこと~

さて、引き続きAxleの三銃士「仮面の男」。
「三銃士」とくれば「キャラ萌え」に走る自分が、何時まで経っても作品を、舞台をかみしめている。


多分、この舞台は「銃士物」であって「銃士物」でないからだろう。
いや、「三銃士」「鉄仮面」どころか、間違いなく「ダル物」こと全11巻の原作「ダルタニャン物語」に間違いないのだが、でも同時に「銃士物」ではないのだ。
「三銃士」もとい「ダルタニャン物語」を知らなくても楽しめるし、「ダル物」視点でも楽しめる。
その一方で「ダル物」にこだわった一点集中をしてしまうと、この物語の大意というか、本質を見落とすんじゃなかろうか、とも思うのである。
なんと不思議な「三銃士」であり「ダル物」であることか。

そして今回の観劇は3月10日のマチソワ。
翌日は「あの日」から1年という日だからか、どうしたって、いろいろ思い出す。
だから今回のレビューは、とても勝手に、個人的に考えたことが含まれているので、その点はご了承を。
あくまでも私の勝手な感想であるよ。
舞台の感想なんて、見た人の数だけあればいいのだ。

 

 

というわけで。
舞台展開が若銃士とおっさん銃士の立体交差なら、さらにこの話は「物語世界」と「現代」の立体交差でもある。
何を当たり前な、と言われそうだけど。
本当に、とてつもなく多面体だ。

またこの舞台のお客さんは、ほとんど多分、銃士なんて知らない、特に若い子たちだ。
知ってたとしても、せいぜいあの人形劇を見て「三銃士って変な話」と思ってたり、ひょっとしたら最近の映画を見て「飛行船すごいねー」と言ってるくらいじゃなかろうか。
原作を読んでたとしても、最初の「三銃士」の部分だろうし、残念ながら絶版となってしまっている「ダル物」全11巻を読んだツワモノが、果たしてどれだけいるだろう??

そんな子たちを「ダル物」で楽しませ、そして強いメッセージ性を持つ作品に仕上げる、というのは、きっと多分すごく大変な苦労があったろうし、脚本家の方は本当によくやったと思う。

話のキモは、根幹はどうしたってクライマックスのフィリップの台詞だ。
先日某チャットで思い出した限り語ってみたのだが、ひょっとして余計なことを言っていたり、落ちてるところもあるかもしれないけど、大意はこんな感じだ(…ったと思う←だんだん弱気)。

「国とは傷つきながらも立ち、生きる人々です。傷ついても何度も立ち上がり、そこで生きる人達こそが、国なのです」
「田舎でも、監獄でも守られてきた私は、傷つくことを知らない。だから私は王にはなれない」
「苦しみ、傷ついてきた兄さんこそ、王にふさわしい」
「みなさん、だからお願いです! どうか、この国を守ってください。傷ついて苦しみ、それでも立ち上がろうとするこの国を、守ってください」


この他にも「国とは先祖が守り続けてきた大地であり」とか、そんなことも言ってたと思うが、どの辺りに入ったか思い出せない。

ただこの、ウルウルじわじわ来てしまったこの台詞の場面で、思わずにはいられないのは、「傷ついた国」といわれて考えずにいられないのは、どうしたって今の日本だ。
そしてこの場面で、同時に、多分私が考えている以上に、特に若銃士世代の子たちは、意識せずともすごく心に大きな衝撃を負ってしまってるんじゃないかと思ったのだ。

もう自分はすでに「2枚目の衣」をまとう世代だが、もし自分が若銃士たちの年齢に、客席の大半を占めていたお客さんたちの年齢に、あんな一連のことが起こったら、そして、それでもこの国で生きていかなければならないのだとしたら、それこそ言葉で説明のしようがない、集団無意識の重苦しいプレッシャーの影響は、否が応でも受けてしまってると思う。

もちろん東京で起こったことなんて、東北やフクシマを思えば「結果、大したことない」というか、比べるべくもないし、エア被災者するつもりもない。

でも、それでもあの日、世界でも有数の未曾有の大都市で、首都圏中の人たちが集まっている「東京」で起こったことは、そこにいる人たち誰もが間違いなく、生まれて初めて経験するものであったし、「東京」が凄まじい不安と混乱のなかにあったのも(そして暴動すら起こらなかったのも)、間違いなく、事実だ。
多かれ少なかれ「東京」も「見えない擦り傷」は負ったのだ。

「擦り傷」はすぐに治った人もいるだろうし、まだ残っている人もいるかもしれない。
残っていることに気づかない人もいるかもしれない。
意識して、あるいは無意識に見ないようにしている人もいるかもしれない。

Axleの脚本家も、そういう年齢の役者さんやお客さんと接しているのだ。
彼らの心情はすごくよく感じ取っているだろうし、パンフレットを見ると、実際被災地の方々にも話を聞いてもいるようだから、「あの日のこと」は何かしら投影されているだろう。
てかもう、多かれ少なかれ、“それ抜き”で考えることなんてできないだろう。
というか、できないよ。
多分きっと、私が考え感じていた以上に、「若銃士」たちは意識的に、あるいは無意識に傷つき、すごく我慢しているんだな、と舞台を見て感じたのである。
怖くても、不安を感じても「言ってはいけない」という無言のプレッシャーのなかで。

そうして改めて考えてみると、この「ダル物」劇で、「王権」「王」「国とは」という要素を抽出し、現代に転換した脚本家さんは、本当に見事だ。
「傷つくキミタチは間違っていない」「傷ついてるキミタチ一人ひとりが国なんだよ」「One for All, All For Oneだよ」というメッセージがガツンと響くのは当然だ。
悲痛で当たり前なのだ、あのフィリップの台詞は。

おそらく今の不特定多数の、特に「若銃士」な子たちに、リアリティを持って、シビアに、かつ励まし、「何か」を訴える今回の「ダル物」抽出要素は、きっとここしかあるまい。
さらにアトス&ラウル、あるいはアラミス&フィリップ、もっと言えばダルタニャン&ルイという「父子」の要素も落としこむことで、「積み重ねた歴史」「それでも未来に託したい思い」がより深々と伝わってくるのだ。

もちろん「三銃士」特有の、ダルの無鉄砲なまでの勇気や、銃士たちの知恵だ、友情だ、「鉄仮面」の策謀だ、フィリップどうなる~、という要素だって十分にテーマにはなる。

でもそれでは「物語」であり「フィクション」であり、「おもしろかった~、楽しかったね~」で終わりだ。
「夢と希望の冒険活劇」だけでは逆に今の世の中には、リアリティに乏しいのだ。

それにそういうコスプレ物や17世紀を旅する芝居は、帝劇や映画やヅカなど、他でも散々やっているし、ビジュアルストレートな現代っ子たちにとっては、そういった話はあくまでも「あちらの世界」のものであって、自分たちのいる世界とは無縁のものに映るだろう。

てか、そういう「歴史的冒険活劇」が趣旨なら、ワイシャツにネクタイにしなくたっていい。
ちゃんとした歴史物として、コスプレすればいいのである。
劇団ひまわり、そのくらいの衣装代は出せるだろう?

ゆえに、敢えてワイシャツにしたのは、きっとそこだと、勝手に思うのである。

だから、フィリップの行く末、顛末が描かれなかったのは当然といえば当然なのである。
「国のゆく末」「キミタチの未来」の答えを、ここで、舞台で出す必要なんてないんである。
というか、出せないし、まさにこれから作って行かなければならないものなのだ。
見た人の数だけあればいいのだ。

自分的にはこういう「投げだしエンド」は本来嫌いなのだが、今回ばかりは妙に納得したのは、きっとそういうことだろう。

でも願わくば、このフィリップは平穏無事に生き延びて、傷つきながらも一人の人間として、生きていってほしいと、「2枚目の衣」をまとってしまってる自分は、やっぱり切に思うのである。